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子育て珍道中  喘息  運動誘発発作

母一人子一人  珍道中  喘息の入退院 運動誘発発作の連続。 運動できない

リクエストありの、子育て珍道中。のお話。どんな子育てだったんですか?と良く聞かれます。

大した子育てもしておらず、イメージだけ、ちゃんとしていると思われているので、ここにて誤解を解いて、又、今子育てにお悩み中の方いらっしゃったら、こんな奴もいるんだと、前向きになっていただくツールになればと思います。

ここから、ですます調をいつものごとく辞めます。

まず、母乳では飲まなく、試行錯誤したが無理だったので、早めにミルク。これが私にはとてもあっていたのと、後ほど 働きに行くのには、楽である。病院から退院する時は、何も用意しておらず、哺乳瓶からミルク、消毒剤、までも退院の時に買って帰ってきたと言う、お気楽な奴。それも一人で連れて帰ってきたので、もちろん一人で、赤ちゃんを、カゴに入れ、お買い物カートにそのまま赤ちゃんカゴを、押し込み、お買い物カゴを手に持ち、必要な物をその日に買い揃える。しかし体はまだ、調子は悪く、ゆっくりゆっくり、スローな動きで行った記憶があるが、今だったら失神して死んでいたと思う。若さって、すごい。

一週間の買い物を、して、1人子育てが始まる。おやおや?旦那さんは? はい、おりましたが、毎日帰りは遅いので、全て1人でしたね。夜も起きる時は一人で起き、ミルクを、作る。この時心がけたのは、言葉をかける事だった。誰に? 旦那さんではなく、赤ちゃんに。言葉をかけないと、話す人もおらず、それでも必死にやっていた。

母親学級にも行ってみたが、周りを比べる会のような気がして、あまり気分ははれなかった。歩いた!オムツ取れた取れない などの会話に 嫌気をさしていたので、あまり関係を深めず、少し離れた気持ちでいたと思う。その代わりに、、その時の人とは誰とも繋がりは未だない。

離乳食は、当時電気で作る、小さなお釜のような物が売っていて、それをかなり使った。中に野菜などを、入れだしを入れ、タイマーをかけるだけ。ご飯も、スープも、お野菜も全てそれで作れる優れもので、かなり助けられた。入れるだけである。のちのち、ベビーフードを活用し始めたら、美味しいのか、無味な物は食べなくなった。やはり株式会社には勝てないと思った。

毎日食べてくれたのは、ひきわり納豆。ほとんど毎日、ひきわり納豆ご飯をあげていた。嫌だとも、今日はこれだけ?とか 嫌な顔もしないのは赤ちゃんの楽さである。こんなのくえるかよ!と大きくなったら言われるであろう、食事を提供していた。今、小さい時にいかに、ダイズを、取ったかで、エクオール値が決まってしまうと話題になっているが、知らずにエクオール値は抜群に蓄えて行った。中々やるなーと自分を、褒めたい。      一歳になった頃働きに行った。お金を必要になる旦那さんの実家の問題であり、急遽共働きが始まった。それから共働きは終わることはなかった。  毎日が時間との戦いで、五時半なはスーパーに買い物。家に戻りすぐにお風呂。何がなんでも先にお風呂。寝かせない作戦であるし、自分のもう一度気合いを入れてご飯を作るリズムだった。何度も言うが、旦那さんは?に、 前のブログを読んでいただければわかるので、省く。

七時半にはご飯タイム。食べて片付けて、絵本を読む。それが毎日の日課ななっていた。絵本は、そら豆くんシリーズを何回も読み、月間の絵本を、買ってもつまらないので、結局 そら豆くんシリーズばかりをリピートしていた。布団のそばには母乳瓶に麦茶を、入れスタンバイ。泣いた時にすぐに口に入れ、お腹いっぱいにして寝かせる作戦。キッチンが2階で寝室は一階と言うめんどくさい構造を、なんとか動かないで寝かせる作戦をよく考えていた。星が映る電気のものも買ったが、がーーーーっと音がうるさく自分が寝られず、結果誰かにあげてしまった。今だったら、プロジェクターなどあると天井にうつして、絵本とか流して寝かせていたかもしれない,

いいのか悪いのかは別として、いかに自分が楽に仕事できるように日々考えていた。宅配の夕飯だけ作るセットも半年ほど頼んだ事があったが結果食費も増え、何やってるんだろうと 辞めてしまった。

保育園から幼稚園に上がった時から入院が続き病院で寝泊まりする日々が始まった。親が同伴なので、狭いベットに子供と一緒にねる。そして六人部屋なのでとにかくうるさいが、疲れ切っているので、寝てしまう。ご飯を、買う暇も

目を離す事もできないので、子供のご飯を食べてまかなっていた。仕事は休めるだけ休んだが、やはり無理があり、その時は母親に仕方なく来てもらって夕方交代をしていた。ここで旦那さんは?に 前のブログを見て欲しい。省略。こんな入退院の連続は、何年も続いた。夜中咳が始まると、吸入をするが、機械も追い込まれた時は床に投げて壊した事もある。       結果機械を買わないとならないが、仕事と子育てと、入退院の繰り返しと、夜中でも抱えて病院へ行かないとならないその、咳の音に敏感になり、参ってしまった時期もあった。

小学校へ入学の時は、入院はなくなりいけるようにはなったが、体育は一切できない身体になった。ランドセルには、手作りの袋に くすり と刺繍をして、吸入を入れていた。発作が起きたら 使う為に下げて行った、が、学校は病院ではないので、そこまで許す事はなかった。説明しに行っても理解できない。包帯でぐるぐるまきになっていたら、優しく声をかけたり労ってもらえても、外からみると普通なので、病気を持っているとは思ってもらえなかった。が診断書と共に学校に何度も行った。家庭訪問はほとんどが毎年先生が変わるので、病気の説明で終わる。

申し送りなどないのか?と思わせるくらい、何も伝わってなかった。保健の先生も何も伝えてはくれなかった。なので私は、一切先生を信用しない 心をその時持った。頼る事は学校はできないんだと。           そこからは、もう ランドセルにつけているのは自分で自分を守る事を教えた。そして強く生きていく為に、困りごとを沢山経験させた。

仕事をしていたので勉強を見てあげる暇も、塾に行かせる事もできずに、そのままだったが、三年生の時これではと、知り合いの大学生 当時一年生の女の子に週一日で一時間の家庭教師として来てもらい、ご飯を作っている間、座って話を聞く事を練習させた。知り合いなので、相当安いお金だったと思うが、とても良い大学生だったので、中学入るまで、来られる時だけ来てくれていた。習い事も一切せずに、入院しないように そんな日々だったと思う。

困りごとと言うのは 一切口を出さないとらいうことだった。宿題も、持っていく用意も何も手を出さないのを徹底した。社会に出てそれから困る事沢山あり。その時考える能力がないとだめだと 何故か思ってしまい、上靴を、忘れようが、届けず、靴下に穴が空いて帰って来ても、あー穴空いちゃったね。と責める事もしなかった。給食係の割烹着だけは待って行った。人に迷惑をかける事は仕方なく持って行ってから仕事に行った。

ある3年生の夏、夏の宿題を一切やらずに9月を迎え、学校に行き、案の定怒られ、家にも担任から電話がかかってきたが、我が家の教育方針を伝え、9月いっぱいで夏の宿題をやっていた。相当こたえたのか、次の年から宿題は結構早く終わっていた。小学校最後には、ランドセルを忘れて学校に行ったのを、忘れてあるランドセルを見て、大したもんだと 思った。で、持っていかない。仕事に行ってしまったので、その先は知らないし、あまり覚えていないので、軽く回避したのだとおもう。あまりにも、困りごとさせすぎたので、忘れても はがねの心を持てるようになり、へっちゃらな心を作り上げてしまった。これは、決して真似をしてはいけないと思う。何にも動じず、冷静なのはその時に出来上がってしまった。焦る!という、漫画のような足がくるくる回っているあーゆー 焦り方はまずやらないタイプになってしまう。

では勉強についてだが、中学入ってから、成績を見せなくなった。ので、一切見せなさい!とは言わず、六年間一度も見なかった。もちろんテストも見たことない。なんで? 見せないからである。成績も知らずに、成績表見ない。ハンコの所だけ出して来るので、そこにハンコを押して返す。コメントって蘭もあった時もあるが、見ていないので コメントすらわからないので、頑張ってください。と一言担任のように 書いた。 その見ない心はどこから来るの?は、私は知ってる方もいるが、今いる神社のまさに裏の木の根本に小学低学年の時はテストを、毎回帰りに埋めていたのである。   私は今、テストを埋めていた前の神社で、神主を、している。何もありませんよ!的な顔をして、御神殿に入っていく白い着物の奴は、その先の木にテストを埋めて、発掘され、電話かかってきて、母親に怒られたのである。 だから、我が子にテストを見せなさいとは、口が裂けても言える立場ではないと思い、見せないのであれば、どーでもいい。と、そこは寛大。いや、かなり変わっている親である。

学校とは三者面談が夏にある。中学から同じ所に通ったので六年間 夏には呼ばれる。その時進路などの事を聞かれるが成績を、知らないので、あまり話を聞いても訳わからず、帰ってきた。そんな親に育てられた我が子も、モギテストでは希望校を書いて受けたらしいが、三者面談に行くと 聞いたことのない大学名が書かれていて、Aランクになっていたものの、一体どこにあるのかわからず、話を聞き 意味不明で帰り車の中で、ちなみにその大学はどこにあるの?と聞くと。  わかんない。     ん?なんで?そこいきたいの?  いや。テキトーに間違えて出しただけ。どこだか知らない。  確かに聞いたことない名前だから Aランク そりゃそーか誰も行かない所なんだなーーと そんな話をして 笑って帰った。    で、興味もないので、結局どこにあるのかも調べずそのまま 担任だけは そこに行かたいんだなと 思っていたのだとおもう。それも、担任へは放置。

塾問題もよく聞かれる。が塾は結果行っても三ヶ月くらいだった。それも夏休みなども含めて行ってみたら、月にかなりの金額に驚き、どーするのかな〜と思っていたら、行かないと言われたので、そりゃ好都合だ!と   そのまま塾は一切行かずに、ニンテンドーdsをやっていた。ポケモンのカセットは2日で殿堂入りを、しているほど 勉強はやらなかった。我が家はニンテンドー塾に通っていたのと同じである。あれは、数学など強くなると思う。ポケモンの名前や数字や広大な地図など頭にあり、そんなこんなで、ポケモンには相当お世話になった。ニンテンドーには足を向けて寝られないくらいお世話になった。もはや、株主にでもなりたいくらい、お礼をしたい。

今は、苦戦中だが、困りごとや、体育が出来ず、冬の寒い時でも1人立って授業を見ていると言った、心のない学校には金八先生はいないと そこでも悟った。そのおかげなのか、かなり我慢わする心ができてしまい、今は苦戦しつつ、頑張っている。

親は、生まれる時はバカでもなんでもいいから、元気な子で出てきて欲しいと思うが、年がたつと、もっともっととなる。

我が家は 自転車も乗ってはいけない 病気を持ち、高校生が自転車を乗って学校に行ってる姿を見るだけで、すごいなーと涙が出た。健康ならなんでもいい。そして、親は子供の為に働いて、進みたいと思う親は、お金を出す。それだけでいいんだと。

もっともっとの考えではなく、生きていられる事のありがたさと     普通に家でご飯たべらる事のすごさと   歩いて学校にいける感動は 大学に入ってから涙した。電車乗って歩いていく。それだけで 親は感動した。咳も出なくなった。薬も持ち歩かなくても良くなった。吸入しなくても良くなった。それを思えたのも大学に入ってからである。それまでは、咳だけで、胸が苦しくなっていた。

元気で普通にいる事は 普通ではない。  ありがたい事と言える。   

社会人になるまで、黙って親はお金を出して、助ける。それでが親と思う。それが、活力になる。 

子供は授かりものだが、病気を、持っていると相当きつい。いつまで続くのか、と治るのかと、大人になってからどーやって生きて行けばいいんだと親は不安になる。子供を持たない人生も 私はありだと思う。もちろん 身体的にか年齢的に諦める人もあるはずだが、持たない人生も、それだけ違った世界があると思う。何が正解で、何が不正解など自分で決めれば良いと思う。 子供ある人と再婚すればいつでも親になれる  血が繋がってなくとも、それは親子になれると思う。どんな道を選ぼうが なんでも良いと思う。誰かと比べない人生なら。

私の子育てはそんなに参考にはならない。親としてやってあげてないと思う。ので、時は同じく過ぎ 子供は成長する。自分だって子供から成長したのだから。そんな奴でも 子育てしたんかい!と軽く 欲を出さず、ありがたいと思える心で、自分の物語を作っていただければと思います。    大した事を言えてませんが

ありがとうございました。    K 感謝

アメブロもやってます。

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